山本正之のズンバラ随筆 第17話  赤葡萄酒の正直

 

ボクがそのワインと出会ったのは、一昨年の秋、マンハッタン53stの三番

街と二番街のあいだにある「LA・GIOCONDA」というレストランの、

ほのかな灯りのテーブルの上だった。LA・GIOCONDAとは、イタリア

語でモナリザのことだそうだ。そう、ここは、ボクがみつけた、おいしくて、

静かで、フレンドリーで、ちょっと高い、イタリアンレストラン。

パスタは、海の幸のエンゼルヘア(スパゲッティのもっと平たくて細いの)、

フィッシュはキャットフィッシュ(なまず)、ミートは陸牛のリブ。が絶品。

もしかしたらマフィアかな?とも思っちゃう、強面(コワモテ)の頑固な店主

がいて、ビールは、イタリアのモレッティしか出さない。アイドライクアバド

ワイザーなんて云うと、即座に「NO」と答える。でも、普段テーブルに来る

ウェイターは、小柄でにこやかな好青年。

その夜、ボクはこの青年からワインリストを渡され、「うーーん」と唸ってい

た。ワインのこと、あまり知らない。うそ、ぜんぜん知らない。目をしばたか

せていると、上から3行目に「SICILIA」と書いてある。指さして聞い

た。「これって、シチリア島のワイン?」「そうです。かるくて、どんな料理

にもあいますよ」「うん、シチリアね。(美少女が浮かんだ)。これ、アイド

ライク。」「OK」

トマト味のスタッフドマッシュルームと、ガーリックの効いたシュリンプドア

と、ペンネボロネーゼを前にして、そのワインをいただいた。

「ETNA ROSSO」。これが、そのワインの名称である。シチリア島の

火山、エトナ山の赤。、ボクは、このワインのとりこになってしまった。

しかし、おそらく、これは、ここでしか味わえないもの。きっと、この店でし

か喉にとおせないもの。鳴呼、ニューヨークにこなければ、二度とこのワイン

を飲めないのか!(シチリア島にいけばいいのにね)。

 

舞台は変わって、昨年の暮れ、ボクは、コロムビアレコードのアニメ制作チー

フであり、ボクとは旧知の仲の前山プロデューサー、その友人で、音楽出版社

社長の山岸さんと、新宿のpepeの6階で会食していた。話しは、夏のアニ

メソングフェスティバルから始まり、水木一郎の素晴らしさや、堀江美都子の

力強さ、あまたの声優歌手の名前、などなど。 食事も済み、今日のところは

解散という頃、山岸社長、なぜかいきなり、こんなことをボクに訊いた。  

「山本さん、ワイン、お好きですか?」。ギョッ!急に来たぜ、ボク答える、

「それがねえ、最近ハマってるんですよ、ワイン図鑑とか買ってきちゃってね

じつは、毎晩ワインなんです」「ああ、それはすばらしい。私、ワイン、もの

すごくくわしいんです。私、実家、酒屋なんですよ。」「うわあ、そうなんで

すかあ、いいなあ」「代官山にね、いいワイン飲ませる小さなお店があるんで

す。次回はぜひ、そこへ、ね、」「いいですねえ、‥‥。ところで、そこに、

シャトーカノン、ありますか?」(エトナロッソのことはまだ聞かない。質問

には順序があるのだ。)、「ええ、ええ、ありますよ、カノンね。なあんだ、

山本さん、いいワイン知ってるじゃあないですか、カノンのこと、どこで知っ

たんですか?」「はい、NYに行く飛行機で出て、結構しぶくて、気にいっち

ゃったんですよ」「そう、あれは渋めですよね、」「あのおー、それじゃあ、

エトナロッソ、はご存じですか?」「ええ?」「エトナロッソ。」「エトナ、

ロッソ、ですか?」「はい!」「うーーん、いやあーー、ぞんじませんねえ、

どこのものですか?」「シチリアです」「シチリアアあああ?」「はい。」

「こんど、調べときます。シチリアねえ‥‥、。」

 

また舞台は変わってその数日後、ボクは、よみうりテレビのアニメ班チーフ、

諏訪道彦プロデューサーと、彼のデスクの脇のソファーで語っていた。

「やああ、山本さん、久しぶりですねえええ」。もちろん、ボクは、この諏訪

くんとも旧知の仲。一緒にアメリカ大陸を横断したんだ。「こないださ、CS

テレビでシティハンターやっててさ、すわくんの名前見て、懐かしかったよ」

「そうですね、あの頃ですよね、ヒューストンに行ったのって、」「うん、あ

れから、NYは行ってる?」「ええ、ええ、毎年秋に、数日ですけどね、こな

いだなんか、ヤンキースの優勝パレードに紛れ込んじゃって、往生こきました

わ、」「ええっ?それって、ブルックリンブリッジのとこからの?」「はいは

い、もう紙吹雪やらなんやらで、えらいことでしたわ」、、、「あのおー、そ

の時、ボクもそこにいたんだけど、」「ええええええっ?!」「いや、決して

ヤンキースを見たくて行ったんじゃないんだけどね、いやいや、ツアーの人た

ちとね」「じゃ、じゃあ、すれちがってたかも知れませんねえ!」「うんうん

奇遇だねえ」「ぼくは最初、ヒルトンに予約してあったんですが、オーバーブ

ッキングやられて、あのおー、なんていったかなあ、LEXINGTON街の

48丁目の、ええっと、」「それ、ウォルドルフアストリアでしょ。」「そう

そう!、それっ!そのアストリア!、に泊まったんです!、さすが、よく知っ

てますねえ、」「すわくん、ボクねえ、そのアストリアの向かいのマリオット

のひとつ東側にあるコスモポリタンっていうコンドミニアムにおったんだよ、

いっかげつね。」「ほええええ?!ほんじゃ、あっこの角を曲がったとこのあ

の、Tシャツを壁に掛けて売っとるとこの向こうのきれいなマンションかねえ

?!」、もう、ふたりとも一気に興奮して、三河弁でしゃべっとる。(すわく

んは豊田市出身)。「なあんだあ、まっと、ひんぱんに連絡とらんといかんか

ったねえ」「ほだねええ」、そこでボク、自慢げに、「あっこのちょこっと先

に、どえらいおいしいワイン出すイタメシ屋があるで、こんど、いこまい」。

その時、すわくんの眼がキラリと光った。「ワイン?」「うん、ワイン。」

「まあさん、私はねえ、じつは今日、この話しがしたくて今までウズウズしと

ったんだけど、コホン、私、ワイン教室に通っとるんです。ほらこれ、カリキ

ュラムですよ、」「へえええ」「いや、別にソムリエになろうとかじゃあない

んですけどね、ビールばっかり飲んどったら、太ってきてねえ、ワインはアル

カリがあるし、腹にやさしいし、料理がおいしくなるしねえ、ほんで、はじめ

てみたら、もう、やみつきですわ」。そこでボク、またもや例の質問。「ほい

じゃああんた、シャトーカノン、しっとるでしょー」「ああ、はいはい、カノ

ンねえ、見たことあるよ、ちょっとまっとってね、これ、このノートに書いた

もんでねえ、ああ、これ、これだね、ボルドーだね」「うんうん、」「どこで

このワイン知ったんですか?」「いやね、飛行機でね、」「へえーー、今時、

ANAはいいワイン出すんですねえ、」。ボク、満を持して、「ほんならね、

すわくん、エトナロッソは?、エトナロッソ、知っとるう?!」「はああ?、

エトナロッソ?」「うん。」「しらないなあ、どこのものですか?」「いやま

あ、あのー、シチリア島の、ね。」

「シチリアねえ、こんど、調べときますわ」。

 

そしてまた舞台は変わって、その数日後の新宿。ボクは、伊勢丹の地下一階の

ワイン売り場にいた。

今、ほんとうのこと、いいます、。山岸さんや諏訪くんと話す前に、

じつは、エトナロッソ、この伊勢丹でみつけてたんだあ!

去年、NYから帰ってすぐ、偶然、ここで、会った。

うれしかったなあー。

 

そんなわけで、伊勢丹に行く用事があると、エトナロッソを買って帰る、とい

う習慣になった。

そのうち、「じゃ、まとめて買っとこう」ということになる。ワインは1本を

三日くらいに分けて飲めるので、(冷蔵庫に入れてね。役者の永田君は、真夏

の炎天の日でも、畳の上に置いといて、一週間、チビチビやるそうだが、大丈

夫かなあ、腐っちゃうよなあ、あっ、もともとが、発酵させてるからいいのか

なあー、)、分けて飲めるので、ビールよりも経済的。です。

 

そして、

事件は起こった。

 

その日、ボクは伊勢丹紳士館でパンツを買い、本館に移動して、エトナロッソ

を3本、籠に入れた。

向こう側の、ジュースやお菓子売り場からの買い物客といっしょのレジに並ん

だ(この日は混んでいた)。レジには二人のイセタンガールがいて、いい感じ

で接客している。けして「こちらのほう、○○円になりまあーす」とか、「レ

シートのお返しになりまあーす」なんていう、クソ日本語は使わない。微笑ん

で、テキパキと、こなしていく。だから伊勢丹は好きだ。

ボクの順番が来た。ボトルから値札をとり、レジスターの横に貼って、手で、

打って行く。「○○○○円でございます。」ボクは財布から1万円札を出して

チェンジを受け取った。「ありがとうございます。」、となりの、目がクリっ

とした店員が、3本のワインをプチプチのビニールに包み、イセタンチェック

の紙バッグに入れる。(これは、年末リクエストショーの備品になる。)

ボク、「どうもありがとう」。イセタンガールズ、「ありがとうございます」

ボク、ニコニコとレジを離れる。すぐに地下鉄の駅に到達して、パスネットを

くぐらせ、ホームに入る。電車が来る。、その時、ふっと、さっきのレジの、

金額が頭をよぎった。

「あれえーー、なんか、安かったようななー、」

ボク、財布を出し、レシートを見直す。

「ええと、‥‥‥、あっ!、やっぱり!、2本分しか打ってないよお!」

ここで、まず、どんな政略がボクの心に沸き出たか。そうです。こんな時、誰

もが口走るひとこと。「やったね!もうけッ!」

電車に乗ろうと荷物を持ち直す。左手にパンツ。右手にワイン。右手を見る。

ボク、つぶやく。「このエトナロッソ、大好きなエトナロッソ、不正をして、

それでおいしく飲めるのだろうか。」

ボクはきびすを返し、先程のレジへ早足で向かう。電車、去る。

「あのー、すいません、さっきのワインのレジですけどおー」

より一層、混んでいる。目がクリっとした店員、怪訝そうに「なんでしょう」

そりゃそうだ、レジのクレームに戻って来るのだから。

ボクはレシートを見せ、間違いを指摘し、もう1本分の代金を出す。

クリっとした店員、たしかに、あやまって、お礼もいって、あわてて、レジ、

打ち直して、一度ばらした包装、包み直して、またあやまって、お礼いって。

その向こうで、最初にレジ打った店員、それを確認して。

何もイヤなことなかったし、何も腹立たしいことなかった。けど、

そこに並んでた人たちも含めて、なあーーんか、冷たい。なんか、へん。

ボク、正直に申告したのに。

駅に戻り、荻窪行に乗って、その、ワインの入った紙バッグ見つめて、

わかった。

「あああ、そうか、いいんだ。もらっちゃっててよかったんだ。ワイン1本の

 代金の補填と、あの混雑の中の手間と、待たされる他の客と。そうかあー、

 バカ、みたんだ。」

世界中の、誰も、この突然の正直な闖入者を、歓迎してはいなかった。

 

今度、こんなことがあったら、絶対に正直にはならないぞ!、そのまま地下鉄

に乗って、「もうけもうけっ」ってほくそえんでやる。

そう決めて、新中野駅で降り、バスに乗り継ぎ、家に着いた。

夜、仕事を済ませ、シャワーを浴び、新しいパンツを身に付け、パジャマを着

て、ETNAROSSO        のコルクを抜いた。

そいつが、その赤葡萄酒が、グラスにつがれながら、囁いた。

 

「買ってくれてありがとう」

 

 

 ボクは、正直者に戻った。